とりあえず書けるものから

 というわけで見習って更新を。

[涼宮ハルヒの憂鬱(放送終了)]

 宇宙人に作られた人造人間、未来人、超能力者に取り囲まれた環境。その原因はハルヒが望んだからだという。では自分はなぜハルヒに選ばれたのかと悩むキョン。その一方では退屈な日常にハルヒはまたストレスをためていた。そんな日常のある日、キョンは朝比奈といちゃついているところをハルヒに見つかる。その夜、閉鎖空間でハルヒと一緒に目が覚める。ハルヒがその場を離れている間に光の姿で現れた古泉によればすでにハルヒキョンは現実世界には存在しない、ハルヒが現実世界に興味を失い新しい世界を作り出す兆候が起こっているという。そこにパソコンを通して長門からのメッセージが。「Sleeping Beauty」。
 そのとき光の巨人が現れ暴れ始める。その光景にはしゃぎ、この世界のままでいいというハルヒキョンは古泉や長門、朝比奈、朝倉たちとの世界も悪くない、まだ話し足りないことがたくさんあると告げる。あなたも世界に退屈しているはずだというハルヒに対してキョンはさらに続ける。「俺は実はポニーテール萌えなんだ」そしていきなり唇を重ねたとき、キョンは現実世界のベッドで目を覚ます。翌日、一見これまでと変わらない現実世界が広がっていた。が、古泉たち関係者の間には昨夜の記憶は残っている。その週末、気を利かせてキョンハルヒ以外の団員が欠席した不思議なこと探索で、キョンハルヒに宇宙人、未来人、超能力者の話をしてやることを心に決めるのだった。

 面白かったシリーズでした。が、原作はもっと長いらしいので全14話というのはいかにも短く感じましたね。構成や仕掛けが良くできた構成だったので、話数を重ねればさらに面白かったのではないかと。
 さて、このシリーズの最大の特徴は『各エピソードの放送順と時系列順の不一致』ですが、これには私はあまり関心が無かったりします。仕掛けがあることは楽しいのですが、改めて考えてみるとなぜこれが必要だったのかぴんと来ない。つまりこれをやったことでこの作品は何を成し遂げたかったのか? ということなんですが。
 SFはあまり読書経験が無いので好例はあまり挙げられませんが、とりあえず思いつくのはT.H.ホワイトの『永遠の王』。魔術師マーリンはアーサー王伝説においてすべての未来を見通しているかのようで意味不明に間が抜けている変人という風ですがその理由は時間を逆に生きているからだったという新解釈です。よって、ウォート(アーサー)との出会いがマーリンにとっては別れのときであり、ウォートが「会ってからまだ5分も経ってないよ」というと「なんと、もう5分しかないのか」と涙を流す。読み始めてから数十ページでこの作品のクライマックスが来てしまうという(笑)。
 それに対してハルヒの話数不一致は、別に不一致じゃなくても作品として成立するんじゃないの? むしろ普通にわかりやすく…と思ってしまいました。
 まぁ、批評という行為は対象に対するそれなりのアツイ思いが、批判はもっとアツイ思いがさせることなのでファンの人は読み流してくださいませ(汗)。

 私がこの作品で関心を持ったのは、ありがちですがコンピュータ研との艦隊ゲーム戦で長門が組み立てたスクリプトが実際に走るらしいとかギター演奏の描写が画期的にそれっぽいらしいとかモブがよく動いていた等から感じ取れるスタッフの作品に対する偏執的な愛着でした(褒め言葉)。
 萌え文化の時流に乗って金太郎飴的に濫作されるアニメで溢れ返る昨今、こういう変なところに情熱を傾ける姿勢に、ああ、この作品は愛されて生み出されたんだなぁと感じます。偏執的に描かれるということは、丹念に描かれるということでもあります。これから先頭ひとつ抜けていくのはこういうところで差別化される作品なのかもなぁと思った次第。

 あと、斬新に感じたのは人造人間という感情を持たないはずのキャラである長門にギャグを言わせたり(キョンの解釈の域にとどまるが)艦隊ゲームでは勝利への執着心をのぞかせたりキョンへの好意(恋心?)を抱かせたりというところです。一見従来のツンデレと変わらないですがそもそも感情が無い存在にツンもデレも無いはずですからね。些末な差異ですか?? すみません、はい。